「見守る」を運動会で考えてみた
先日、ダウン症の娘が通う特別支援高等学校の運動会がありました。
この学校には娘と同じダウン症や発達障害等の様々な個性を持った子が通っています。 そんな運動会で、「見守る」という事について考える一幕がありました。
目の前で、足に装具を付けた子が転んだ
他の競技同様に50メートル走も、一人一人がゴールするまで、ゆっくりとしたリズムで流れていきます。
4~5名でスタートした1年生のある組で、足に装具を付けている子が、ゴール数メートル前で転んでしまいました。
私は、心の中で「アッ、大丈夫か、助けなければ」と思いましたが、その子と一緒に伴走していた先生は、直ぐに手を貸すような事はせずに、その子が一人で起き上がるのを、その子の目線までしゃがんだ状態で見守るだけです。
そして、その子はゆっくりですが、自分で起き上がって自分の力でゴールしました。
私の中では、盛大な拍手ですが、周りは思いのほか冷静です。 ゴールをしたという事以上の過度な声援はありませんでした。
「知っている」から「見守れる」
きっと先生は、その子が一人で起き上がって、一人でゴールへ向かう事が出来る事を知っていたんですね。
支援学校という特別な環境ではありますが、先生たちは生徒一人ひとりの能力や性格にあわせた関わり合いをしています。
その子を知っているから・理解しているから、転んでもすぐに手を貸すのではなく見守るという事が出来るわけです。
仕事でも相手を「知る」から始めよう
これを仕事に当てはめると、どうでしょう?
リーダーという立場では、人の育成というのも役割としてあると思います。
メンバーを「知って」仕事を任せて、「見守る」という事が出来るといいですよね。
また、「見守る」というのは、人だけが対象ではありません。
個人の力が及ばない社会情勢についても、その状況を知ったうえで、見守る事ができれば、変化にもいち早く対応できます。
一見すると簡単に見える「見守る」ですが、本質は積極的に相手を「知る」ことが大切だと感じた一日となりました。